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[CD] ギター古事談
[CD] GARNATA
GARNATA - Kagetomo Nagao
発売日: 2014年11月21日
品番: FEST-0002
アーティスト: 長尾景友(ながお かげとも)
タイトル: GARNATA(ガルナタ)
フォーマット: 国内CD
定価: 税抜 2,315円+税
発売元: FESTINA LENTE / Gois Inc.
流通: Inpartmaint Inc.
ジャンル: WORLD
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フラメンコ・ギタリストの長尾景友が2004年に久保田真琴プロデュースで発表した幻の名盤が待望の復刻! ! フラメンコにアラブ音楽をハイブリッドした、魅惑のエキゾチック・ワールド・ミュージック。
10年前、一人の青年がアジア、中近東、スペインヨーロッパ、ラテンアメリカと、世界放浪をしていた。フラメンコギターを抱えてたどりついた音世界。その世界を青年は1枚のアルバムに詰めたそのアルバムは1部の人の間で大きな反響を起こしたが市場に出回る事はなかった。10年後、その青年は自らの音楽の原点を見つめ直す為に、ここにそのアルバムを復刻する事を決意した。
「世界中のあらゆる街角での邂逅は、異文化との喜ばしい接触として即座に私の中で旋律となり、律動となった。そう、思われた。目のくらむような世界の多様性と、それらがこすれ合う摩擦熱からは、常に刺戟的な何かが生まれる環境が用意された。きっと、そうであった。ガルナタ(アラビア語でグラナダの意)という街が歴史的に包摂する異種交配のダイナミズムは、ギター青年を酔わせ、その滴りは曲集として結露するに至った。確かに、そうであるには違いなかった。しかし、その陶酔と酩酊の中にあっても、ある怜悧な意識が私を離すことはなかった。「イベリア半島の赤茶けた土は、私が還る土ではない。」という思いだった。
1 : Arena del sur(アレーナ・デル・スール:南の砂)5:44
スペインの詩人ガルシア・ロルカがインドを暗喩した「南の熱い砂」という言葉が曲想の源。フラメンコやアラブ音楽で多用される4拍子のリズムに、アジアやアフリカ音楽の特質であるペンタトニック・スケールを基調としたメロディを乗せている。スペインでこのメロディが浮かんだ当初、モロッコ人ミュージシャン達とのセッションが多かったため曲のタイトルを「南の砂」としてイメージの場をモロッコのサハラ砂漠に移した。録音にはモロッコ出身のパーカッショニスト、ハリッド・アハブンと歌い手のアブドゥル・ハミッド・アジュバル、そしてスペイン出身のバイオリニスト、ラウール・マルケスが参加。そもそもフラメンコとは、こうしたアジアから地中海域にかけての多様な民族間で繰り広げられたセッションの中で生まれてきたものではなかったろうか。フラメンコやアラブ音楽の、人を惹きつけて止まないあの怒涛の生命力、むせかえるようなロマンティシズム、徹底して刹那的な哀愁というものは、彼らの絶え間ない異文化間の衝突や邂逅といったダイナミックな日常の産物であるような気がする。我々日本人が魅了される要素も、そこから生まれてくる「熱」であり「バイタリティー」といったところにあるに違いない。僕がこの曲を通して何か伝えんと想うことがあるとすれば、それは上記の2つの言葉のような類のものだ。
2 : 12Lunares(ドセ・ルナーレス:12個の月)4:20
古代ギリシャ語で「ムジカ」とは、宇宙の構成、森羅万象の成り立ちの中に秘められた数字の法則を解き明かす学問を意味したと聞く。それは現代スペイン語の「ムシカ(音楽)」の語源となっている。つまり古代ギリシャにおいて音楽家とは、この神秘なる数の法則を理解しそれを自在に操る技能を備えた者であったそうだ。フランスの作曲家エリック・サティの言葉を借りれば「音楽とは、数字に命を与えることだ。」ということになるわけだが、この数の神秘がめくるめく活躍の場を与えられるのが、この曲で使用されている「ブレリア」というリズムパターン。12拍子を基本的に3・3・2・2・2と割る変則拍子なわけだが、初めて聞く者はこのリズムに乗ることに非常な困難を覚える。それもそのはず、フラメンコギタリスト達はこの基本リズムに3、4、6、といった数字でポリリズムを自在に忍び込ませ、時にはフレージングの中に5、7、といった素数まで登場する。いわば数字そのものがダンスを繰り広げるような感じだ。
「ルナーレス」の単数形である「ルナール」とは、スペイン語で「ほくろ」や「水玉模様」という意味で、「ルナ(月)」という言葉から転化したものである。
そしてこの水玉模様というのはスペインジプシー達にとってのシンボリックな模様とされている。彼らが水玉模様の服を着ることは我々にとっての紋付袴に等しい。それもフラメンコの歌詞に多く出てくる「月」という言葉と無縁ではあるまい。
「12個の月のダンス」これがこの曲のタイトルの原意といったところだろうか。
3 : Exilios(エクシリオス:追放されし者たち)7:35
スペインを「スペイン人が作った国」とするのは、イベリア半島の歴史に対する近視眼的な見方のようだ。かつてはローマ人、西ゴート族、ベルベル人、アラブ人、ユダヤ人・・・
多種多様な民族の共存を可能ならしめた土地でありながら、15世紀末以降、カトリック教徒以外の者に対する排斥運動は凄惨を極めた。アウトサイダーとならざるを得なかった彼らはしかし、イベリア半島の歴史に思想・文化の面で多大な痕跡を残した。中世スペインが輩出した稀有なユダヤ人哲学者マイモニデスは「どんなに困難であろうと、強制を逃れ、昼も夜もさまよえ。世界は大きくて広いのだ。」と言って、追放され流浪に生きる人々を励ましたという。マイモニデスはまた、そうした社会のアウトサイダーとしての流浪生活を、最も好ましい「知」の鍛錬の場と認識した。自らの帰属意識をはねかえす環境の中にあって、人は好むと好まざるとに関わらず自分の存在の出自、進むべき道、己と外界との関係性を常に自問せざるを得なくなるからだ。
スペイン特にアンダルシアという土地は、そうした歴史や社会、体制といったものから拒絶されてきた人々の遺物によって構成されていると言っても過言ではない。彼らアウトサイダー達の残していったものに囲まれ、触れ、そこに想いを馳せる時、自分もまたアウトサイドにある者としての立ち居地を確認するのだ。
ギターソロ用の曲として、スペインとイスラエルにおいて作曲した。
4 : Spring of Timrat(スプリング・オブ・ティムラット:ティムラットの泉)4:24
世界には、その国の人すら知らず、地図にも載らないような小さな村が無数に点在する。ティムラットもそんな村の一つだ。地中海域独特の背の低い緑の草木が茂り、赤、青、黄、白といった花々に蝶が舞い飛ぶ「ナウシカ」の風の谷のような彼の地で曲想を得たのだが、国名その他は秘密。
フラメンコ・ルンバの曲を作ろうと思ったのだがいつの間にか南米ふうのリズムで作っていた。録音はバイオリンのラウール・マルケス、パーカッションのラファエル・ロサーノ、エレキベースのニコラス・メディナ、全員スペイン人となった。バイオリンのメロディは録音の前夜、寝る前に作って当日の朝に採譜して録音の30分前にラウールに渡すという荒技となったが結果的にとても気に入っている。
最後に倍速のテンポになってからのメロディも、録音が始まってから思いついたものだった。最後のパートはダンサブルなものにしようとしたのだが、思えば僕が音楽をやろうと思ったきっかけは、タイにいた時に旅人から聞いた、「人間に最後に残るのは歌と踊りである。」という、インドのとあるグルの言葉であった。
5 : Buscando Alegria(ブスカンド・アレグリア:喜びを探して)4:01
「喜び」を意味するアレグリアという名のフラメンコの形式を使っている。普通この形式は明るい長調で演奏されることが多いのだが、敢えて短調で始めているのはタイトルの意とするところ。最後にセカンドギターが入ってくるところまでは探索の過程といったところだろうか。
ファースト・ギター、セカンド・ギターとも自分で演奏し、カホンはラファエル・ロサーノ、パルマ(手拍子)はフラメンコダンサーのアナ・カリに参加してもらった。リズムがフラメンコ特有の12拍子であるため、スペイン人のくせにフラメンコのことをよく知らない録音エンジニアのフェルナンド・ロメーロとはリズムの頭がどこであるかについて延々もめた。フェルナンドは2拍余分にカウントしてしまうのだ。「ここがリズムの頭だ。」「いやここだ。」なんてことをやっているうちに遂に僕が折れ、「そうですよー、そこが頭ですよーだ・・」と言って2拍余分にカウントして演奏を進めた。
最終的にフェルナンドがこのアルバム中で最も気に入っていたのがこの曲だった。
6 : Imigrants' dance(イミグランツ・ダンス:移民達の踊り)6:03
20歳のころピアソラの曲を聴くようになって以来、いつかアルゼンチン・タンゴ風の曲を作りたいと思っていた。初めてアルゼンチンを訪れたのは2000年、国際タンゴフェスティバルに招かれた時だった。毎晩フェスティバルでの演奏が終わった後、ミュージシャンやダンサー達とタンゴのナイトクラブへくり出し、明け方まで遊んで朝飯を食べてから眠りにつく、昼夜が逆転した生活。ある晩タンゴダンスの手ほどきをしてくれていた女性が胸を合わせたままこう言った。「ダンスでなければ伝えられないエモーションがあるのよ・・」こうやって僕は大人になっていくんだろうなと思いつつ、気がつくと僕はクラブのカウンターで、僕と同い年ぐらいの息子さんを持つアルゼンチン・マダムに口説かれていた・・。
アルゼンチン・タンゴの魅力というのは、人間の愚かしさや「業」といったものを片っ端から肯定していく姿勢にあるのではないかという気がする。これはフラメンコにも言えることだが、そのあまりにも世俗的なありようの中に、ふとした瞬間、極端に世俗的であるがゆえに神々しい何かが垣間見えることがある。タンゴやフラメンコに「魔力」なるものがあるとすれば、きっとそれに違いない。
この曲の中でソプラノ・サックスを吹いているのは、アイルランド出身のパトリック・シナモン。ベッカムとミッキー・ロークを足して2で割ったような顔をして、「イタリア人の彼女にふられたのでスペインに来た。」という、言動の不可解な男。タンゴを奏するに相応しい。
7 : Route 8(ルート・エイト:8の道)5:28
イスラム建築の装飾などに多く見られる8角形の星がある。「マホメットの星」と呼ばれ、イスラム世界のシンボリックなマークであり、東洋医学の根本思想を説明するために陰陽の図彰が用いられるように、アラブ医学のそれを図解するのに使われもする。8は「完成(パーフェクト)」を意味する数字であるそうだ。奇しくも日本古来の文化にも、「末広がり」のその数字を神聖視しているとおぼしき名称が見受けられる。「八幡」「八坂」「八百万(やおよろず)」・・・
ユーラシアを貫通するこの相似の事象に何か理由はあるのか。断言は許されず、知る由とて無いが、想像を膨らませることは自由である。そのイマジネーションを具現化したのがこの曲である。リズムはどうしても8の中に内包されうる数字にしたかったので4拍子のタンゴスというフラメンコの形式を使った。ギターは幻想的な響きを持たせるためにロンデーニャと呼ばれる形式のチューニングにしてある。録音にはインド出身のタブラ奏者、ケシャブ・カンティが参加してくれたが、ケシャブはインド政府公認のインド伝統音楽演奏家としての肩書きを持つ。 本物のタブラ奏者の演奏からは、リズムの音というより「時間そのものの音」が聞こえてくるようだといつも思っている。パルマ(手拍子)が打ち出すフラメンコの基本リズムと、インドタブラのパルスがパラレルに(並行して)進行する、予想もしない科学反応が起こった。
8 : Garnata(ガルナタ)7:18
1995年、放浪の旅をしていた僕が足を止め、音楽を学び始めたのはスペインのグラナダという街だった。グラナダをアラビア語で「ガルナタ」と言い、その意味するところは「ざくろ」である。キリスト教では受難の象徴として描かれるらしい。この街にいると、ヨーロッパにいるというより、世界の西と東、今と昔が一点で交わるその交差点にたたずんでいるような気がしてくる。グラナダ出身の詩人ガルシア・ロルカはこう言っている。「グラナダは思索と瞑想のための街である。」「この街は多くの者に対して閉ざされている。ただ天に向ってのみ開かれている。」
この曲は僕が生まれて初めて作曲を開始した曲であり、21歳の時作り始めて29歳で完成した。